九十九里

今年、新しい教科書に変わりました。去年までは、短歌俳句という単元でしたが今年からは短歌という単元になり、俳句は三年生で学習する単元になりました。



去年の「短歌俳句」の単元はで、短歌なら一応、万葉集〜現代のものまでが載せられていましたが、今年は、北原白秋正岡子規石川啄木の三人の三首のみ。
教科書の終わりに、参考短歌として12首載っていますが、すべて明治以降のものばかりで、妙に偏っているのです。
短歌とか俳句とか、古いから難しいとか新しいから分かりやすいとか、そういう問題じゃなくて、知っているか知らないかという教養の問題だと思うんだわぁ。せめて、教科書でアンソロジー的に数多く紹介しなかったら、詩歌に触れる機会なんて限りなくゼロに近いと思うんだけど。たった三首でいいのかなぁ、という気がします。




中学校で、ぎょっとするのが、同じ日本語を話していながら、まったく意味が通じていないという文化的ギャップを、毎日のように感じることです。時々感じるという頻度じゃなくて、「毎日」っていうところが、「ぎょっと」してしまうの。




昨日の「ぎょっと」は九十九里浜を知っていることが、クラスに一人しかいなかったこと。
(一人でもいてよかったと思うべきか?)
九十九里の 波の遠鳴り 日のひかり 青葉の村を 一人来にけり  伊藤左千夫
という短歌があったので、万が一知らない子がいたらいけないと思って、九十九里って何のことだかわかる?と聞いたら、それが海岸線であることも、ましてや千葉県にあることも、日本有数の砂浜であることも知らないんだわ。・・・ということは、この短歌に出てくる単語の意味はわかるけれども、短歌の意味は、何にも分からないってことじゃない?
そのくせ、「九十九里って何なの」という質問をこちらが出して、初めて自分はそれを知らないんだという状況が分かるという状態なんです。



これが、かえって英語だったら質問があるのかもしれませんが、日本語だと「わかった気がしてしまう」というところに大きな落とし穴があるのかもしれません。
すごく不安になったでしょう?今日、夕飯時にでも子供に聞いてみてください。
九十九里って、何だと思う?」と。