仁和寺にある法師

仁和寺にある法師」という単元をやっているところです。
仁和寺(この寺の僧はエリートですっっ)の僧侶が、石清水八幡宮を拝んだことがないので、一度参詣したいものだと、ある日一人で徒歩で参詣に出掛けます。ところが、思い込みから山の上の八幡宮へは上らずに麓の神社仏閣を拝んで帰ってきてしまいます。
・・・ここまでなら、私たちの日常によくある勘違い、というやつです。
ところが、このエリートの僧侶の話はこう続きます。
他の者たちがゾロゾロと山に登っていくのは何かわけがあったのでしょうか。私は、参詣が目的なので、他の者のようには山に登るなんて事はしないできましたけどねぇ(キッパリ)」


どうです、この鼻持ちならない言い草は。


「私はあの有名な仁和寺の法師なの。どっかの一般ピープルとはわけが違うの。私は他の一般人みたいに物見遊山に来てるわけじゃないから、本来の目的を果たしたら、サッサと帰ってくる。それが筋ってもんでしょ。」
この思い込みの激しさって、実は普通に私達に通ずるものがあって、かつて中学生だったころの私は、自分の恥部を取り出して拡大鏡でつぶさに見せられたような嫌ア―――な気持ちになったものでした。



で、問題はここからなのですが、とある問題集に、兼好法師が一番言いたかったことは何でしょうかという設問があって、その答えが「なにごとにもその道の先導者は必要である」となっているんだけど、ちょっとピンボケじゃないですかい?



法師が間違えて本殿を参詣せずに格下の寺を拝んで帰ってきたというのは、笑い話の部分であって、いわば前座の部分です。本題は、自分の失敗を知らずに、誇らしげに仲間に報告し、挙句の果てに他の人たちの行為に対して、非難めいたコメントまでつけている、そういうエリート意識と、頑迷さと、思い込みの激しさが愚かしいというのがテーマなんじゃないの?少なくとも私は今までずっとそう思って読んできましたが・・・