わたしを束ねないで

三年生の国語の教科書(光村書店)の一番最初に出てくる教材は詩です。三年生は新川和江さんの「わたしを束ねないで」です。
私は、昔から詩歌系の文学が大っ嫌いで、俳句・短歌・漢詩・詩は私の鬼門でした。
わすれもしません。中学生のころ、短歌の教材で、「この短歌の鑑賞文を書こう」という授業がありました。
自慢めいてしまいますが、私は小学校からずっと「読書感想文の女王」として学年に君臨してきたのですが、「短歌の鑑賞文」については、一文字も言葉が沸いてきませんでした。
その時にはじめて、「感想文の書き方がわからない」という人の気持ちが理解できました。
「ああ、感動的な本を読んでも、何も感想が沸かないというのは、こういうことなんだ〜」と。
前置きが長くなりましたが、そういう因縁の詩歌教材。
三年生を三年連続担当しているので、この教材を見るのも三回目です。
実は、なんだか本能的にこの詩が自分自身に合わないなぁとぼんやり感じていました。
三年目にしてやっとその理由が分かりました。


わたしをたばねないで/あらせいとうのように/白いねぎのように/束ねないでください わたしは稲穂/ 秋 大地が胸を焦がす/ 見わたす限りの金色の稲穂
    ・・・・・
私を名づけないで/ 娘という名 妻という名/ 重々しい母というのでしつらえた座に/
座りきりにさせないで下さい わたしは風/ リンゴの木と/ 泉のありかを知っている風
    ・・・・という具合の五連の詩です。



私が本能的に、この詩人の思いが、私のとは違う方向を向いていると感じたものの理由が分かったような気がしました。新川さんは、あらせいとう・白いねぎ・標本箱の昆虫・高原から来た絵葉書・・・・娘という名・妻という名・母という名・・・・
を拒んでいるのに対して、私は、あらせいとう(人工的に手の加わった美しいもの)も白いねぎ(スーパーで売られているようなきれいな野菜)も娘・妻・母という立場も地位も拒むどころかウエルカムというか、どっぷり漬かっていたいし、その中で人生を楽しみたいと思っているタイプの人間だったからなんじゃないか。


詩って感性なんだ〜。
本能的に「そうそう、これこれ」とか「う〜ん、違うかも・・・」というのを感じ取って、それでおしまい、でいいような気がします。
あれこれ鑑賞したり解説したりというのは詩にはそぐわないんじゃないかと、思ったり・・・・しました。